古宿町の山車:(茨城県那珂市額田)
古宿町の山車は、一基の彫り物であり、この彫り物は明治の初め頃に製作された。右は神功(じんぐう)皇后、左は竹内宿禰(たけのうちすくね)で、抱いている子供は後の15代応神天皇を表している。なお、写真中央で輝いている菊の紋章は、これを彫った彫刻師が日光東照宮の彫刻師の流れを汲む人で、当時菊の御紋を彫れる唯一の人でもあったといわれている。
古宿町山車の由来について
1、山車の建造年代・・・・・正確な年代は不詳。しかし、額田他町の山車建造年代と13町の各町に山車が建造された事から推測すると、明治初年(3年)から13年の間に建造されたものと思われ、今からおよそ130年前になる。
また、山車を建造した大工や飾り彫師の氏名も不詳であるが、上記のことから考察すると、大工や彫師なども額田他町と同じ巧人が携わったものと考えられる。
2、山車の建造に関わった巧人は、杉村住人・大森弥介等数人で建造したと考えられる。
この巧人:大森弥介は、柄目町、上之町の山車を建造していることが明確に記録されていることと、制作年代が明治3年から13年までの10年間でそれぞれの山車建造に携わっていたと思われるからである。
3、柄目町、上之町の山車の飾り彫師は、「後藤梅助」と「後藤仙太郎」の2氏名であることが記録に残っており、同じ彫師によって造られたものであると考えられる。
4、山車の造りは、他町の山車と異なり白木造りで極めてシンプルな感じがするが木材そのものの質を生かした造りになっている。
白木造りで彩色はされていない事は、神を祭り。神に豊穣を捧げることから考えると極めて神聖な山車であることは一目瞭然である。
5、飾り彫刻の中心は、山車中央部のもので、その彫刻は次の様な謂れを表わしている。
西暦270年(2005年時点で、1735年前)の頃、新宮皇后が現朝鮮征伐(新羅又は三韓)に出陣する情景を描いた彫物。
神宮皇后は、中央右上部に立ち、その左下には大神の式内宿神の姿があって、その胸の中には、後の15代天皇になる子供の応神天皇が抱きかかえられており、新宮皇后の出陣とその別れを描いた彫刻なのです。
しかも、中央部には、菊の紋章が彫られており、それは、天皇家を表す紋章でもあります。菊の紋章は、もう一つの彫刻にも彫られています。
6、上記、彫刻にある応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)で、八幡神社の祭神でもある。
7、額田淡島神社の祭神は、本宮の和歌山市加太にある淡島神社の祭神と同じで、神宮皇后を祭り、それを祀ったのは応神天皇であることは、古宿町山車の彫刻は、淡島神社の謂れを知った上で、神宮皇后の三韓征伐の情景を描いたものである。
8、後藤彫師の子孫であり後藤彫師5代目の後藤桂仙氏(現いわき市に在住)が、額田神社の神輿の修理を2度行っている。又、この後藤彫師に弟子入りし、東京の雅叙園や国会議事堂の彫刻を師とともに彫った方が矢島軍造氏で、矢島明氏(額田北郷)の従兄弟にあたる。
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