何故、徳川家は那珂郡・久慈郡の実質的な管理を行ったのかについて(佐竹氏との関係)
天正12年(1584年)当時、佐竹氏は、後北条氏と和議を結んで南方を抑えていたが、北方では伊達政宗に黒川城(義重の次男であり義宣の弟である蘆名義広が城主となっていた)を陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。
天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続し佐竹氏19代当主となった。
佐竹氏は、伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。
佐竹氏は、秀吉の小田原征伐(天正18年:1590年)においては、宇都宮国綱ら与力大名を含めた1万余の軍勢を率いて秀吉のもとに参陣し、天正18年(1590年)6月、石田三成指揮の下、忍城を攻めを行い忍城水攻めの際の堤防構築に従事するなど功績をあげた。
小田原の役後、義宣之功績に対して、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられている。
また、義宣は、天正18年(1590年)12月23日、秀吉の執奏によって従四位下の位を賜り、侍従・右京大夫に補任され、天正19年(1591年)1月2日には、秀吉から羽柴姓を与えられる。
その後も、天正19年(1591年)の朝鮮出兵や伏見城の普請等において功績を果たした。
文禄4年(1595年)6月19日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定されたことを受け、義宣は、54万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領しており急激に勢力を拡大している。
これにより、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれたという。
慶長5年(1600年)、義宣は関ヶ原の戦いにおいて家中での意見がまとまらずに中立的な態度を取ったが、上杉との密約等の事情で外様大名として、慶長7年(1602年)に常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へ減転封された。
家康は、江戸幕府(1603年)の起こす前に、徳川氏の本拠地である江戸に近い佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質80万石以上と目された上、合戦に直接参加していないため軍団が無傷で残っており、脅威であった。そのため江戸幕府近接の大勢力の佐竹氏の力を減殺する必要があった。
ところで、佐竹氏は石高を半分以下にさせられたため佐竹氏の家来の多数が常陸にととまることになった。
この時、義宣は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与えることはできないであろうことや、50石または100石取りの給人については転封先に連れて行かないことなどを述べている。
家康は、佐竹氏を秋田に転封させると同時に、自らの子供(徳川頼宣・徳川頼房)を佐竹の後に藩主として配置したのである。
また、水戸徳川家(徳川光圀)は、佐竹の本拠地である、久慈郡(太田)や那珂郡(額田)に弟を藩主とする支藩を置いたと考えられる。
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