徳川光圀公(水戸黄門)の奉納神供器・ご使用食器(?)

元禄7年(1694年)に水戸義公(徳川光圀)は、額田の八幡神と鹿島神を奉遷合祀し「鹿島八幡宮」を合祀建立しました。
その時に水戸光圀公から鹿島八幡宮に写真の神供器拾ケが奉納されました。
以来、昭和47年までの期間(280年近い期間)にわたり、神社の神供器として実際に、毎月の1日、15日、28日の月次祭に使用してきました。
同神供器は、280年近い期間にわたり実際に利用してきたために写真のように自然磨滅が甚だしくなり、昭和47年に新しい神供器に変更し現在神社の宝物として保存しております。
徳川光圀公は、額田地域(額田・向山・米崎)を知行していた松平頼元(初代水戸藩主の徳川頼房の四男)と頼貞の親子が額田に居所していたことから、水戸と西山荘との往来において額田にも良く訪れていました。光圀公は、元禄7年(1694年)自ら額田にあった鹿島神社と八幡神社を合祀し、鹿島八幡神宮を造営し自ら詣でました。
※元禄9年(1696年)名称改め「額田鹿島八幡神社」、額田村の鎮守となる。社司は、白石氏を置く。

上記の食器は、神社に訪れたおりに光圀公自身が食事に利用したと言い伝えられる漆塗りの食器である。
右は、ご飯用の食器で大きさとしては現在使用されている丼ぶり碗よりやや大きい、左は、味噌汁用の食器で現在の丼ぶり碗程の大きさがある。
食器のそとの絵柄には松の枝が描かれ水戸徳川家の葵の紋が描かれている。
【左】 高さ:8cm 口径:14cm   【右】 高さ:11cm 口径:16cm


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