茨城の淡島神社:安産祈願・子宝祈願・縁結び・人形供養・針供養・無病息災
正保元年に、徳川頼房の四男の松平頼元が現在の額田・向山・米崎を知行し陣屋が額田にあり、松平頼元が観音寺に淡島神社を寄進したことが始まりとされている。
この時期は、まだ、寺社の分離を行っていない時期であり、鹿島大明神社と観音寺は同じ場所にあったとされている。
松平頼元の居所については、「土芥寇讎記」という書に「居所常州糠田、本知に二万石」と記載されている。」
※「土芥寇讎記」は、記述内容から元禄3年(1690年)から4年にかけて脱稿したと思われる。
原本は和綴本全43冊、首巻に総目録、第一巻が将軍家の初代から家康までの略伝、第二巻~第42巻に支藩を含めた諸大名242人について、親藩を先に、次に諸藩(譜代と外様の区別無し)の順に記述されている。諸藩の中の順は、一部の例をのぞいて、ほぼ石高の高い方から降順に記述されている。
一種の各藩の「紳士録」とも言える物であり、この後江戸時代後期に刊本として流通した「武鑑」の嚆矢となったとも言われているが、『土芥寇讎記』は現在東京大学史料編纂所が蔵しているものしか確認されておらず、余り一般には流通しなかった本ではないかとも考えられ、それゆえ「謎の史料」と言われている。
正保元年(1644年) 初代水戸藩主徳川頼房の四男の松平頼元が那珂郡額田を知行する。「居所常州糠田、本知に二万石」
正保元年(1644年) 松平頼元が観音寺に淡島神社を寄進造立する。
元禄7年(1694年) 松平頼元4月死去、65歳。
元禄7年(1694年) 松平頼貞が後を継ぐ。
元禄7年(1694年) 水戸光圀の命により鹿島神と八幡神を統合し「額田鹿島八幡宮」とし、額田村の鎮守とする。
正保9年(1696年) 名称改め「額田鹿島八幡神社」、額田村の鎮守となる。社司は、白石氏を置く。
正保13年(1700年)9月 松平頼貞は、江戸幕府(将軍徳川綱吉)より岩城守山藩の藩主に取り立てられる。
※額田藩・守山藩
額田藩は、寛文元年(1661年)9月、水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元が、兄の徳川光圀から水戸藩領のうち那珂郡内2万石を分与され立藩した水戸藩の支藩である。
当初は領地を与えられず、水戸藩から2万石分の年貢を与えられる形であったが、翌年には地方(じかた)に改められ、年貢を直接徴収できるようになった。また、御三家の分家(連枝)であるため参勤交代の義務がない定府大名であった。元禄6年(1693年)に頼元は死去し、嫡子頼貞が相続した。
元禄13年(1700年)9月、第5代将軍徳川綱吉の命により、頼貞に陸奥国田村郡などに2万石を与えられたため、陣屋を田村郡内の守山に移した。
額田藩の旧領は水戸藩に返され、以後は守山藩として存続した。
歴代藩主は江戸小石川の藩邸に定住し、参勤交代を行なうことは無かった。藩政においても水戸藩の監督を受ける立場にあった。
幕末期の元治元年(1864年)、武田耕雲斎ら天狗党の乱のとき、守山藩でも乱に関わった者が多数いたため、藩士の多くが処罰されている。戊辰戦争のときには新政府軍の北上の前に戦う事無くして降伏。明治2年(1869年)の版籍奉還で第7代藩主・松平頼升は守山藩知事となる。明治3年(1870年)、松平頼之が藩庁を常陸松川に移したため、守山藩は松川藩と改められる。翌年の廃藩置県で松川藩は廃藩となり、その所領は松川県となる。その後、白河県・磐前県を経て福島県に編入された。
淡島神社は、鹿嶋八幡神社(額田神社)の本殿の裏に参道があり、その奥に鎮座している。
祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大巳貴命(おほなむちのみこと)、息長足姫(おきながたらしひめのみこと)である。
神社の創建は、江戸時代初期正保元年(1644年)といわれ、鹿島大明神社の北側にあらたに参道を造り淡島神社を造営している。
淡島神社の本社は、和歌山県和歌山市におる加太神社の俗称である。
額田の淡島神社の霊験は、女性が主で安産祈願・子宝祈願・縁結び・針供養である。額田の淡島神社の本殿には、蛇のミイラが安置されている。