額田に山車がこんなに残っているか疑問に思うと思いますが額田のいにしえの歴史から考えると次のように考えられます。
- 額田には久慈川が流れており、額田神社の後ろの幸久橋あたりが栃木、福島、奥久慈からの物流拠点でした。
- 額田に陸揚げされた物資は、陸路中川まで運ばれ1つのルートは涸沼、北浦、利根川を経由して江戸に運ばれた。もう一つは那珂湊をへて、東北、江戸、その他に海路で運ばれ宿場として繁盛していた。
- 陸路は棚倉街道の宿場として、また、額田城は1249年(760年前)築城されその頃より繁栄していたと考えられる。特産物は紅花、お茶の生産が盛んであった。(鈴木家住宅は紅花商)。
上の様な背景もあり、近在では裕福な集落であったと考えられ江戸時代の天保4年(180年前)から額田神社大祭礼が挙行されるようになった.
大正13年までは、那珂湊まで渡御が行われ、金砂神社の大祭礼と同じように100人以上の渡御行列が繰り出された。祭りは4月8,9、10の3日間行われていた。現在は約70人規模の渡御行列とみこし2台山車5台繰り出した大祭礼を3年毎に行われています。
大正時代までは16町内の山車で行われていたが、色々事情があり現在は7台が残っております。
現在、上ノ町・本後町・柄目町・新地町の4つの山車は、鹿嶋八幡神社の境内の山車庫に保管されています。
古宿町の山車は、一基の彫り物であり、この彫り物は明治の初め頃に製作された。右は神功(じんぐう)皇后、左は竹内宿禰(たけのうちすくね)で、抱いている子供は後の15代応神天皇を表している。なお、写真中央で輝いている菊の紋章は、これを彫った彫刻師が日光東照宮の彫刻師の流れを汲む人で、当時菊の御紋を彫れる唯一の人でもあったといわれている。
大正時代までは額田の16町内の山車があった。現在7台の山車が残っているが、古宿町・上ノ町・本後町・柄目町・新地町の5台の山車が現役で3年に1回の大祭礼に参加稼働している。
スライドの写真は、大祭礼における古宿町・上ノ町・本後町・柄目町・新地町の昼と夜の山車の引かれている様子である。